中央構造線はどこを通っている?
中央構造線マップ(グーグルマップ)
グーグルマップは家一軒を識別できるぐらい拡大できますが,中央構造線の位置は,露頭で見える場合を除きそれだけの精度はありません。おおまかな位置を示しています。
領家変成帯の岩石と三波川変成帯の岩石の地質境界(物質境界)としての中央構造線は,(独)産業技術総合研究所地質調査総合センターのオンライン20万分の1シームレス地質図の情報をもとにして,一部地域は自分自身や共同研究者による調査により細部を修正しています。
活断層としての中央構造線は,旧通産省地質調査所発行の中央構造線活断層系(四国地域)ストリップマップ(1993)と中央構造線活断層系(近畿地域)ストリップマップ(1994)に掲載のものだけ記しています。
グーグルマップに線を表示する方法は, ドライブイン信州 の大久保さんに教えていただきました。ありがとうございました。
なお、もっと詳しく中央構造線の位置を知りたい方は、「付録:『地質図NAVI』で中央構造線の位置を詳しく調べる!」にお進みください。
中央構造線のおおまかな位置
以下の地方別のマップには、「地質境界としての中央構造線」 のおおまかな位置を示します。
九州の中央構造線
大分県の国東(くにさき)半島と佐賀関(さがのせき)半島の間を通ることは確かです。
大分市南方の大野川流域では、中生代末期の堆積岩に覆われていて、地質のつながりが分からなくなっています。
九州中央部では、阿蘇山の下に隠れています。仮に阿蘇山を取り除いても、その下に中生代より新しい地層があれば、それも取り除かなければなりません。さらに、九州中央部ではもっと古い古生代の岩石が中生代の岩石に押し被さっていて、古い地質を出しても中央構造線は見えないのではないかと言う見解もあります。
九州西部の八代(やつしろ)市北方の白亜紀の花崗岩や天草の中生代末期の堆積岩が、中央構造線のどちら側に属するものなのか、見方が分かれています。天草西海岸や長崎市の野母(のも)半島の岩石の一部は、外帯の三波川変成岩と同じものだという報告があります。大分県津久見~熊本県八代から南の九州山地には、外帯の三波川変成帯の海溝側の関東山地~沖縄本島に並ぶ秩父帯と四万十帯の岩石が露出しています。
九州の中央構造線は佐賀関半島北方からそのまま「大分-熊本構造線」につながるという見解と、やや南方の大野川付近で南へ回り込み、臼杵(うすき)と熊本県八代を結ぶ「臼杵-八代構造線」につながるという見解があります。また阿蘇山のところで述べたように、九州中央部では「古い岩石を見ても中央構造線は見えないから中央構造線は無いと言うべきだ」という主張もあります。
四国・紀伊半島の中央構造線
豊予海峡では、佐賀関半島と佐田岬半島の北岸の沖合を通っています。地質境界としての中央構造線は伊予市上灘で上陸し、砥部(とべ)町から西条(さいじょう)市の丹原(たんばら)へ続きます。砥部町には、国の天然記念物になっている露頭があります。ただし「活断層としての中央構造線」は松山市内の重信川付近を通っています。
石鎚(いしづち)山地のふもとを新居浜(にいはま)から川之江(かわのえ)へ続き、阿波池田(あわいけだ)から吉野川の少し北側を徳島市北方へ続きます。四国東部でも「活断層としての中央構造線」は、地質境界より北寄りの阿讃山地の南麓から鳴門市内を通ります。
四国と紀伊半島の間では、淡路島南岸と沼島(ぬしま)の間を通っています。
紀伊半島では、紀ノ川や紀ノ川上流の吉野川の少し北側を、和歌山市~橋本~奈良県の五條~東吉野~三重県境の高見峠へ続きます。
紀伊半島西部でも「活断層としての中央構造線」はやや北方の和泉山地の南麓に見られます。四国~紀伊半島西部の区間は活断層としての活動度が高く、「中央構造線活断層系(産総研)」、「中央構造線断層帯(政府の地震調査本部)」の名で評価対象になっています。また徳島県は条例で活断層上に公共施設や危険物を扱う施設の建設を制限しています。この活断層帯は、五條付近からしだいに向きを変え、金剛山の東麓の断層帯へ連続しています。
三重県では、高見峠から櫛田(くしだ)川の少し北側を、松阪市粥見(かゆみ)へ続きます。高見峠に近い松阪市飯高町月出(つきで)には、国の天然記念物になっている中央構造線の露頭があります。粥見で櫛田川は、中央構造線を南から北へ横断します。 粥見から東へは、多気(たき)町の勢和多気インター付近から伊勢市内へ続きます。地質境界は伊勢神宮外宮を通っています。外宮の南側の御神域の高倉山や二見浦の夫婦岩の岩石は三波川変成帯の変成岩です。
高見峠~三重県の山中の区間は活断層になっている可能性は低いですが、東部では伊勢平野の南縁が直線的な地形の境界になっていて、活断層になっている可能性があります。
伊勢湾・赤石山脈の中央構造線
愛知県では、中央構造線の谷は三河湾になっています。今から2万年前の氷河が広がった時代には海面は120m低く、伊勢湾や三河湾の底より海面が低く、豊川の河口は伊勢湾口よりも外にありました。中央構造線を掘り下げて流れた豊川の谷は三河湾内まで続いていたと考えられます。1万1000年前に氷期が終わり、海面が上昇して豊川の谷は水没して三河湾になりました。谷の南側の水没を免れた高まりが渥美半島です。氷期には瀬戸内海の底よりも海面が下がっていて、四国の佐田岬半島の地形も渥美半島と同じです。ただし佐田岬半島の岩石は三波川変成帯の変成岩ですが、三河湾では三波川変成帯の部分はほとんど三河湾の下に水没していて、伊良湖(いらご)岬などの渥美半島に露出している古い岩石は三波川変成帯の南側に並走している秩父帯の岩石です。ただしボーリングにより、渥美半島の北方に砂州が伸びた立馬(たつま)崎の下を中央構造線が通っていることが分かっています。
中央構造線は伊勢市付近からしだいに北東方向へ向きを変えていきます。新城市の長篠城付近から豊橋までは、ほぼ豊川沿いになります。豊橋は中央構造線が侵食された谷を川の堆積物や縄文時代に海面が上昇して湾になったときの堆積物が埋めてできた平野の上にあります。豊川の河床では新城市内の桜淵まで行くと古い岩石が露出しています。桜淵に見えているのは三波川変成帯の変成岩で、新城市役所との間に中央構造線が通っています。長篠城が豊川(寒狭川)に面した崖に地質境界としての中央構造線が露出しています。
新城市鳳来町大野からは宇連(うれ)川沿いの湯谷(ゆや)温泉は通らず、阿寺七滝南方の小さな谷に沿って、浜松市佐久間(さくま)町川上へ出ます。そこから相川と大千瀬川に沿って中部天竜へ。中部天竜と佐久間の間だけ天竜川が中央構造線沿いを流れています。中央構造線は佐久間から北条(ほうじ)峠を通って水窪(みさくぼ)へ続きます。
中央構造線は、このあたりで南北方向へ向きを変え、水窪~天竜二俣~天竜河口から南海トラフへ続く赤石構造線と一体になります。赤石構造線は伊豆‐小笠原列島の衝突を受けて、おそらく1500万年前ごろに誕生した中央構造線よりずっと新しい断層です。伊豆‐小笠原列島の衝突により、中部地方の古い地質帯は北方へ曲げられて行きましたが、同時に水窪以北の中央構造線は再活動して外帯側が北方へずれ動かされていきました。その南方の延長上に赤石構造線が外帯を切って生じました。また赤石構造線と平行に、少し東側の和田~森に光明断層も生じました。赤石構造線と光明断層に挟まれた地帯を「赤石構造帯」と言います。これらの断層の横ずれによって、東側が60km北方にずり上がりました。断層をはさんだ相手側が左へ動くようにずれるので、このずれ方を「左横ずれ」と言います。
このころの四国では中央構造線の内帯側が外帯側へ押し被さる逆断層の再活動をしていました。したがってこの1500万年前以降は、中央構造線は切れ切れになり1本の断層ではなくなります。中央構造線に注目する場合、この茅野市~水窪の赤石構造帯と一体の左横ずれの活動期を「赤石時階」といいます。一方、赤石構造帯と一体となってしまったこの地域の中央構造線を「赤石構造帯の一部としての中央構造線」と呼ぶ人もいます。
天竜川は、佐久間から南では、この比較的新しい時代に大きくずれた赤石構造線を掘り下げて流れています。では上流ではどうでしょうか。じつは現在の地殻変動で地形的な大きな変動ブロックの境界になっているのは、中央構造線ではなく伊那谷(活)断層帯です。そこでは地形的な南アルプスのブロック(赤石傾動地塊)の西縁に、中央アルプスのブロックが押し被さるように上昇しています。その境界に生じているのが逆断層の伊那谷(活)断層帯です。中央構造線は隆起している南アルプスブロックの中の古傷になっています。南アルプスの区間の中央構造線も活断層になっていますが、伊那谷断層の方が活動度が一桁速い活断層です。この伊那谷断層がつくっている相対的な低地帯を天竜川が流れています。
したがって天竜川の本流は、上流では伊那谷断層帯が造っている低地帯を流れ、下流では隆起している赤石山地南部を赤石構造線沿いに下刻して流れています。赤石山地では上昇中の主稜線から伊那谷へ向かって三峰川、小渋川、遠山川が流れていますが、それらのさらに支流が中央構造線を下刻して、茅野から水窪に至り、さらに赤石構造線沿いの天竜川本流の谷に連続する南北方向の一直線の谷が刻まれています。
水系の境界には全体としては大きな谷の中ですが、侵食され残った「谷中分水界(こくちゅうぶんすいかい)の峠があります。それをたどると、静岡県水窪から青崩(あおくずれ)峠を越えて長野県に入り、飯田市遠山~地蔵峠~大鹿村~分杭(ぶんくい)峠~伊那市長谷(はせ)・高遠(たかとお)町東方~杖突(つえつき)峠~茅野(ちの)市の諏訪大社前宮付近へ続きます。これが中央構造線の位置になります。この区間の遠山の程野、大鹿の安康(あんこう)と北川、長谷の溝口、高遠の板山などで、地質境界としての中央構造線が露出しています。遠山の程野では、活断層としての地形のくいちがいも見られます。
諏訪湖~関東の中央構造線
諏訪地方では糸魚川‐静岡構造線の古傷が左横ずれ活断層として再活動していて、諏訪盆地の地形を造っています。この活断層により、中央構造線は茅野から岡谷まで12km食いちがわされていて、逆に諏訪盆地を造っている活断層の食いちがい量の目安になっています。
岡谷の横河川上流の河床にわずかに三波川変成帯の変成岩が露出していますが、その先は古い岩石は北部フォッサマグナの新生代新第三紀の地層や火山岩、現在の第四紀の火山噴出物に厚く覆われ、中央構造線の位置は分からなくなります。
しかし関東山地には外帯の岩石がよく露出していて、群馬県下仁田には内帯側の領家変成帯の花崗岩も少し露出しているので、中央構造線は下仁田を通っていることが分かります。埼玉県比企丘陵にも花崗岩が露出し関東山地の外帯側の岩石との境界である武蔵嵐山付近の関越道が通っている谷が中央構造線の位置であることも分かります。
関東平野は現在の変動で大きく沈降しつつあり、川や海の堆積物で埋まって平野になっています。その堆積物は厚い所では2000mに達します。さらに平野の西部には、その下に北部フォッサマグナの地層もあり、合わせて深い所では3000m以上の深さに日本列島の土台や骨格になっている古い岩石があります。そこまで掘らないと中央構造線の位置は分からないのですが、関東平野では古い岩石まで届くボーリングが十数ヶ所で行われ、中央構造線は埼玉県さいたま市岩槻付近を通っていることが確認されています。
その先は、内帯側の領家変成帯の花崗岩や変成岩は筑波山に露出していて、霞ヶ浦の下の深いボーリングでも同じ岩石に到達しています。また船橋、成田、九十九里の多古では三波川変成帯の変成岩に到達していますので、その間の鹿島灘付近の地下に中央構造線が続いていると推定されます。
東北日本では、足尾山地の岩石がロシア沿海州に連続しているので、日本海ができる前は今のロシア沿海州の沖合に中央構造線の延長部があったのではないかという考えがあります。一方、白亜紀の花崗岩が三陸の宮古にあるので、それが領家変成帯の花崗岩の続きと考え、日本海溝付近に中央構造線の延長部があって、古い地質ごと大陸の下に沈み込んでしまったのではないかという提案もあります。